「視聴率100%男」と呼ばれるほどお茶の間で大人気だったコメディアンの『欽ちゃん』こと萩本欽一さん。
全盛期だった頃は、家族全員がテレビの前に集まって欽ちゃんのコントを観たというほどの人気ぶりでした。
若い世代にも「全日本仮装大賞」などでお馴染みですね。
そんな萩本欽一さんの若い頃の画像やエピソードが気になります!
この記事では、
- 萩本欽一さんが若い頃は大泉洋さんと似ていた⁉画像比較で検証
- 萩本欽一さんの若い頃の画像紹介
- 萩本欽一さんがコメディアンを目指した理由
- 萩本欽一さんのプロフィール
などについて詳しく調査しました!
萩本欽一の若い頃が大泉洋に似てる⁉画像で比較!
萩本欽一さんの若い頃と大泉洋さんが似ていると言う情報があります。
さっそく画像で比較しながら見ていきましょう。
2人の顔もしゃべり方も動きも似てる⁉
ネット上の声でもご覧のように、似ていると感じた人の数々の呟きが溢れていました。
若い頃の欽ちゃん、大泉洋氏にちょっと似ている気がする。
— nekoboul (@nekoboul) July 22, 2011
大泉洋さんの喋り方、少し欽ちゃんを思い出す。
— TONO (@tono9215) March 5, 2024
コント55号のコント「机」をたまたま見たけどめっちゃ面白いな(笑)
— キンカン@ハッピーに暴れたい (@HSkinkan) May 15, 2022
当時の欽ちゃん、しゃべりや動きが今で言う大泉洋みたい。
「欽ドン」とか大好きだったなぁ。
笑いは普遍だな、改めてそう思う。 pic.twitter.com/KmxNEXfbgl
なんと、お顔だけでなく、お2人の喋り方や動きまでそっくりという声もありますね…!
ここからはお2人の画像も一緒に比較してみましょう。
若い頃の欽ちゃんが大泉洋
— 赤ずきんフミちゃんのリボン (@looney1940) March 15, 2019
にしか見えない・・・ pic.twitter.com/MhYiN5jo6T
#一番似ている二人をアップした人が優勝
— 赤ずきんフミちゃんのリボン (@looney1940) September 14, 2023
若い頃の欽ちゃん(萩本欽一)
と大泉洋さん pic.twitter.com/WpYaDGOZPi
これは…!お顔がかなり似ていると言ってもいいレベルではないでしょうか!
- クリっとした目
- 目の二重幅
- タレ気味の眉毛
- 面長の顔
- ちょっとおちょぼ口
- 髪型の雰囲気
どれも似ていますよね。
また、ネットの声では、
- 喋り方
- 動き
なども似ているという声が多数あったのも驚きました。
隠し子⁉
実は、大泉洋さん自身も、2021年3月8日放送のテレビ番組『メレンゲの気持ち』に出演した際に、
「隠し子だ」という噂が本当にあったんです
と話されていました!
きっとお2人が似ているということはご本人たちの耳にも入っているのでしょうね。
大泉は、「いやほんとにね、結構あったんです。北海道で『隠し子だ』っていうまことしやかな噂がほんとにあったんです」と話し、スタジオに「やっぱり?」と声が上がると大泉は「凄い言われます」と話していた。
引用:ライブドアニュース
隠し子だと言われるほどですので、萩本欽一さんの若い頃と大泉洋さんが似ているということは、多くの方が感じていることの証でしょう。
萩本欽一の若い頃(幼少期からコント55号まで)を画像で紹介!
萩本欽一さんの若い頃の顔画像などを調べました。
幼少期の頃から大人まで時系列順に、各時代のエピソードとともにご紹介していきます!
5歳の頃
萩本さんは東京都台東区で生まれます。
家族構成
- 両親(父親・母親)
- 兄2人
- 姉2人
- 弟
という、8人家族でした。
明るくて誰とでも仲良くなれるようなイメージの萩本欽一さんですが、幼少期は極度のあがり症で内向的な性格だったのだそうです。
今の萩本欽一さんを知っているとすごく意外ですね!
疎開のため、埼玉県のさいたま市へ転居するも、終戦後は再び台東区へ戻ります。
「御徒町中学校」へ進学した萩本欽一さんは、中学時代のある出来事をきっかけにコメディアンを目指すように。(詳しくは後ほど解説しますね!)
高校時代
高校時代は、新聞配達のアルバイトをして家計を助けていました。
というのも、、
萩本欽一さんの父・団治さんはカメラの製造などの仕事をしており、幼い頃はお手伝いさんがいるほど裕福な暮らしでした。
しかし、萩本さんが小学5年のとき会社が倒産。
萩本さんが中学3年頃には、家にまで借金取りが来ていたそうです。
野球部に所属するもアルバイトがあるため思うように部活動に参加できなかったといいます。
そんな萩本欽一さんはコメディ映画が好きでチャップリンの映画をよく見ていました。
そんなひとときが一番心安らぐ時間だったのかもしれませんね。
「浅草東洋劇場」でコメディアン下積み時代
萩本欽一さんは当時、喜劇役者だった森繁久彌さんの豪邸を見たことで、高校卒業後は「浅草東洋劇場」でコメディアンになるための修業を始めます。
「浅草東洋劇場」に入ったころ
なかなか芽が出なかった萩本欽一さんですが、1966年、坂上二郎さんと「コント55号」を結成すると、人気急上昇。
あれよあれよという間に、絶大な人気を誇る唯一のコンビとなりました。
コント55号時代の事を
— とーちゃん(さん付け不要) (@knightma310) December 17, 2023
坂上二郎さんは「打ち合わせ何もなくって
楽屋に行ったら衣装があるからそれを着て、
舞台に上がったら欽ちゃんの話に全力でついていってた」と話してた。
萩本欽一さんは「二郎さん、台本あげると丸暗記しちゃうし、面白くないんだよ。
だからコントの打ち合わせの時… pic.twitter.com/cX4KkDBzDo
Buonasera〜🤱💕エドちゃん🤱💕😉🥂✨昭和の爆笑王コント55号の代表作のひとつ「個展」欽ちゃんの笑いは坂上二郎さんにアドリブで突っ込みを入れて二郎さんのリアクションで観客を笑わせる方法✨二人の舞台はほとんどストリップ劇場で笑うために来てはいない観客を笑わせる至難の技でした~🤩💕💋 pic.twitter.com/XaLPhpGcJF
— みんなの恋人エドちゃん😉💞 (@taxigial) April 24, 2023
31歳の萩本欽一さん。1972年「家族対抗歌合戦」で司会を務めていた頃
萩本欽一さんの家族写真
萩本欽一さんと嫁・澄子さんとの出会いは、1963年春。
萩本欽一さんが出演する劇場「フランス座」に澄子さんが見に来ていたことがきっかけでした。
当時澄子さんは、「フランス座」の下にある「東洋劇場」でストリップの踊り子として仕事をしていました。
澄子さんは新米の萩本欽一さんを応援して経済面でも助けてくれます。
が、萩本欽一さんが「コント55号」でスターになると、澄子さんは突然の失踪。
自身の経歴が萩本欽一さんにとってマイナスとなると思ったのでしょう。
やっとのことで澄子さんを見つけ出した萩本欽一さんはプロポーズをしますが、澄子さんは了承しませんでした。
しかし、澄子さんは「彼の子供は欲しい」と思ったため、未婚で第一子を妊娠。
それでも澄子さんは結婚を拒み、「子供は責任もって育てます」の書置きを残し、再び失踪。
そこで、萩本欽一さんは記者会見で世間に結婚と子供についてを公表するのです。
萩本さんの覚悟を見て、やっと結婚を了承した澄子さん。
お2人には3人の子宝に恵まれ、2020年8月28日澄子さんが82歳でガンで他界されるまで幸せに暮らされました。
この話は「欽ちゃんの初恋」としてドラマ化もされました。
三遊亭こうもりさん(末高斗夢さん)出演、萩本欽一さんの『欽ちゃんの初恋』を見た。実に感動した。13年の大恋愛。
— 宮川(企画) (@air_srock) August 21, 2012
萩本欽一がコメディアンになった理由
萩本欽一さんがコメディアンになった理由の一つは、母親に大きな家を建てるために稼ぎたかったことです。
萩本欽一さんがは高校卒業後、1959年に「浅草東洋劇場」でコメディアンデビューを果たします。
まずは萩本欽一さんがお笑いに興味をもった理由から見ていきましょう。
中学時代にお笑いに興味
萩本欽一さんは中学時代にある出来事が起きて笑いをとることが楽しいことに気づきます。
ある出来事とは?
- 学校の休み時間、教室の黒板に先生のあだ名を落書きをした欽ちゃん
- 落書きを消せないまま先生が教室に入ってきた
- 「誰?」と先生が強く聞いたため、驚いて立ち上がった欽ちゃん
- 先生は「男の子はこれ位の勇気がなきゃだめよ」と咎めなかった
こうして先生に恩を感じていた萩本欽一さんは、先生の授業中には張り切って手を挙げることを決めます。
次の日のHRでさっそくチャンスがやってきました。
- 「これわかる人?」と先生に問われ、欽ちゃんは挙手。
- 指名されるも答えがわからなかったため「わかりません!」と答えた欽ちゃん。
- 教室中が大爆笑の渦に…!
先生へ恩返しをしたいとの一心で挙手していただけで、答えはわからない。とっさに「わかりません!」と答えた。すると次の瞬間、教室中が笑いに包まれた。「ドカーンとウケた。それがコメディアンになるきっかけですね」
引用:産経新聞
母親のために稼ぎたい
また、萩本欽一さんは中学時代貧しい暮らしを送っていました。
幼い頃は父親のカメラ製造の仕事が順調で裕福でしたが、倒産。
萩本さんが中3になると家にも借金取りがきます。
ごめんなさい、ごめんなさい
と、玄関で謝る母親・トミさんの姿を見て、
涙が止まらないぐらい悔しくて、お金をいっぱい稼いでお母さんに大きな家を建てるぞ
と決意したのだそうです。
森繁久弥の家の庭に芝生
萩本欽一さんは、母親に大きな家を建てるために仕事を探し始めます。
同級生が見ていた雑誌で、映画スターが豪邸に住んでいる写真を見て映画スターを目指そうと思った萩本欽一さん。
しかし、映画スターと自分の顔立ちの違いから、主役を諦めお笑いの役ならできるのではと考えます。
そこで、お笑いをやっている人たちの家を見て回ることに。
- 森繫久弥さんの家のそびえたつ洋館
- 清川虹子さんの家の庭の芝生
を見て、なんだかわからないけどコメディアンになると決めたそうです。
主役じゃなくて、お笑いの役、当事でいうと堺駿二さんとか伴淳三郎さんとか、そういう役なら競争相手も少なそうだしと思って、それでお笑いやってる人たちの家を見て回ったの。
そのときたまたま見たのが森繁久弥さんと清川虹子さんの家で、森繁さんの家は洋館で聳え立ってる家。
清川虹子さんの家は庭に芝生が生えててね…。
二人の家見て、なんだか知らないけどコメディアンになろうと思ったんだね。
引用:えずこホール
素敵な大きな家を見て、自分もこんな家を建てたいという思いからコメディアンになろうとされたのでしょうか。不思議な感情だったのか、萩原さん自身もよく理解はされていないようですね。
萩本欽一のプロフィール
萩本欽一さんのプロフィールをまとめました。
- 生年月日:1941年5月7日
- 血液型:A型
- 出身地:東京都入谷
- 身長:164cm
- 体重:65kg
- 足のサイズ:25cm
- 1959年:高校卒業してから「浅草東洋劇場」の軽演劇の一座に加わる
- 1961年:自ら座長となり「浅草新喜劇」を作る
- 1966年:坂上二郎さんと「コント55号」結成
鏡に僕が写ってますね!!#欽ちゃん #高畑淳子 #香取慎吾 pic.twitter.com/CKuNENdXCQ
— 香取 慎吾 (@ktrsngofficial) August 16, 2019
まとめ
この記事では、「萩本欽一の若い頃が大泉洋と似てる⁉幼少期からコント55号まで画像で紹介!」と題して、萩本欽一さんの若い頃について調査してきました。
ネット上のでも2人が似ている!という声が多数ありました!
また、大泉洋さん自身も「隠し子だ」と言われることがあると話していました。
いつかお2人が並んで話される日が来るといいなと思いますね。