俳優の大東駿介さんは、映画やドラマで活躍する人気俳優ですが、その生い立ちはとても壮絶だといわれています。
小学生の頃に父親が失踪し、中学生で母親にも家を出て行かれてしまったというショッキングな過去を、自ら明かしています。
この記事では、大東駿介さんの兄弟は何人いるのか、そして父親・母親が蒸発した壮絶な生い立ちや現在の母親との関係について、分かりやすくまとめています。
ぜひ、最後まで読んでみてくださいね。
- 大東駿介さんに兄弟はいるの?何人?
- 大東駿介さんの父親・母親が蒸発した壮絶な過去とは?
- 大東駿介さんの母親は現在どうしているの?
大東駿介の兄弟は何人?
幼少期は両親と大東さんの3人家族でしたが、小学3年生の時にお父さんが失踪し、その後はお母さんと二人暮らしだったため、頼れる兄弟はいなかったのです。(※お母さんも大東さんが中2の時に失踪しました。)
兄弟がいない大東さんにとって、両親の不在はとても心細いものでした。
中学時代には実質的に一人きりで暮らすことになりますが、血の繋がった兄弟がいない分、支えてくれる存在は限られていました。
自宅はクリーニング店を営んでいたが、お金を置いて帰ってこないときが2日、3日、1週間と延びていき、とうとう帰ってこなくなった。「中2のときぐらいですかね。それからは1人暮らし」と振り返った。
引用:デイリー
ただ、その中で叔母さんの家族や親しい友人たちが「家族同然」の支えとなってくれました。
中学3年生の頃から親戚である伯母(おば)に引き取られた際、伯母の家には年上の従兄(いとこ)がいて、大東さんはその従兄を実の兄のように慕っていたそうです。
大東さんは高校卒業後に上京しますが、その際もしばらくこの年上の従兄と同居し、色々と助けてもらったといいます。

兄弟はいませんでしたが、 “家族同然”の存在に支えられてきたことが、大東さんの人生にとって大きな支えになっていたようですね。
大東駿介の父親母親が蒸発した生い立ちが壮絶!
大東さんは小学3年生の時に父親が蒸発し、中学2年生の時には今度は母親も家に戻らなくなってしまったのです。


親がいなくなったことで生活は一変し、彼は中学3年生になる頃まで一人で生活を続けるしかありませんでした。
- 小学3年で父親が蒸発した経緯
- 中学2年で母親もいなくなり、電気・水道も止まる極貧生活
- 命をつないだ“駄菓子”の話と、こっそり差し伸べられた先生の優しさ
- 仲間たちの友情と、親戚に引き取られてからの回復
- 大人になってからの「親への想い」と心の変化
小学3年生で父親が蒸発
大東さんの父親は、タクシーの運転手をしていたそうです。
もともと家にはあまり帰ってこなかったようで、大東さんが小学3年生のとき、母親が近所の人に「離婚した」と話すのを耳にしたことで初めて父の蒸発を知ったそうです。
母親が近所の人に話すのを聞いてから、父親とは一切会っていませんでした。
中学2年で母親にも見放され、1人きりに
父親が去った後、母親は女手ひとつで大東さんを育てていましたが、次第に精神的にも金銭的にも追い詰められていった様子がうかがえます。
自宅はクリーニング店を営んでいたようです。
- 店を開けなくなる日が増える
- 家にお金だけ置いて何日も帰ってこない
- 最終的には完全に帰ってこなくなった
中学2年生のとき、大東さんは実質「中学生一人暮らし」をスタートすることになります。
自宅はクリーニング店を営んでいたが、お金を置いて帰ってこないときが2日、3日、1週間と延びていき、とうとう帰ってこなくなった。「中2のときぐらいですかね。それからは1人暮らし」と振り返った。
引用:デイリー
駄菓子と小銭でつないだ命
親がいない生活において、最初に問題となったのが「食べ物」でした。
久々にどんどん焼き食ったら
— なかのくん (@3616Naka) March 17, 2025
めちゃくちゃ美味くて良かったけど
味濃すぎて高血圧待ったなし
幾つになっても駄菓子はうまい pic.twitter.com/RtLoderBlN
- 家にある小銭をかき集めて、駄菓子屋へ
- 「どんどん焼き」1個(約24円)を買って飢えをしのぐ日々
- 1円玉ばかり持っていくのが恥ずかしくて、1軒ごとに別の店を巡る工夫も…
本人は後に「どんどん焼きの栄養で助かった」とも語っています。
母が置いていったお金が底をつくと「レジの小銭もだんだん減ってきて、10円の駄菓子を買うのも、1円を集めていた」と淡々と語った。当時買っていたのは「どんどん焼き」(現在価格24円)。「餅米と、たまに豆入ってる。どんどん焼きの栄養に助けられた」と笑顔を見せた。
引用:デイリー
電気・水道も止まり、心も限界に
- 電気や水道が止められ、暗闇の中で暮らす日々
- 学校でお弁当が持参できず、昼休みが地獄に感じた
- 誰にもバレないように「お昼は寝てるフリ」をすることも
その極限状態の中で、大東さんは自分自身を責め、心もすり減っていったといいます。
「鏡に向かって“殺すぞ!”と叫び続けていた」と語っており、その声に気づいた近所の人が心配して駆けつけたというエピソードも。
覚えているのは、僕の家の1階に、でっかい全身鏡があったんですよね。僕はその全身鏡に映る自分に向かって、「殺すぞ」ってずっと叫んでたんです。それを聞きつけた近所のおじさんが、ドアを開けて入ってきて。
引用:withnews
担任の先生がくれたパンに救われた
そんなある日、学校の先生がそっと手渡してくれたものがありました。
- 誰もいない廊下で「これ食べなさい」と差し出されたコンビニの菓子パン
- 「スティックチョコパンとジャムマーガリンのコッペパン」が今も大好き
お昼に何も食べていないことに気付いた担任が、コンビニで菓子パンを購入。それを誰も見ていない廊下で渡してくれた。「そのとき食べたスティックチョコパンとジャムマーガリンのコッペパンが、いまでも大好きですね。
引用:デイリー



この見えないやさしさが、大東さんの心を少しずつほどいていったのですね。
親友たちがドアをこじ開けて救ってくれた
さらに、救いとなったのが幼馴染の友人たちの存在です。
- 毎日「遊ぼう」と迎えに来てくれる
- 最初は出てこなかった大東さん
- ついには家のドアをこじ開けてまで入ってきてくれた
その日から、自分の家が「秘密基地」となり、笑顔を取り戻せたといいます。
いつも5人組でつるんでいた親友が助けてくれました。引きこもって学校に行っていなかった頃に、毎日「大東、遊ぼう!」って声をかけにきてくれて。それでも僕が出ないでいたら、家のドアを突き破って入ってきた。
以降、僕の部屋を秘密基地みたいに使い出して。そのうちの1人が、お笑いコンビ「金属バット」の小林圭輔です。
引用:withnews
伯母の家に引き取られ、生活が安定
中学3年生の頃、ようやく母の姉にあたる伯母が引き取ってくれることになりました。
- 伯母は「自分の子どもとして育ててくれた」
- 生活が安定し、高校にも通えるように
- 高校時代は「めちゃくちゃ楽しかった」と振り返る
叔母と暮らしながらバイトもして、お金を貯めて17歳で上京しました。高校時代はめちゃくちゃ楽しかったんですよね。中学生のときは、ひとりきりでいる自分の家が、世界の全てだと思っていた。「俺はもうここから出られない」って。それが友達や叔母に連れ出してもらったら、たやすく、もっと広い世界が見えたんです。
引用:withnews
ここからようやく、大東さんの人生が再び動き出します。
上京、そして俳優の道へ
高校卒業後は、アルバイトで貯めたお金を元手に上京。
幼い頃から映画が大好きで、
「辛い今の自分も映画の中の登場人物だと思えば楽になれるかもしれない」
と考えたことが俳優という夢に繋がったといいます。



過酷な体験を乗り越えた大東さんだからこそ抱けた夢だったのかもしれませんね。
父との再会は「遺影」だった
大東さんの父は、失踪後しばらく所在不明だったものの、大東さんが20代前半の頃に一度「見つかった」という連絡があったそうです。
しかし当時、大東さんは意地を張って父親に会おうとはせず、月日が流れました。
そして、25歳の頃になってから「やっぱり会いたい」と思い始めた矢先、父は亡くなっていました。
- 再会は「遺影」だった
- 「ああ、死んでたんや」と呆然とした
- でもその後「亡くなってからの方が父を好きになれた」と語っている
不思議だけど、亡くなってからのほうがお父さんのことを好きだし、自分の父親だと感じます。これってつまり「自分がどう思うかで世界は一変する」ということだと思うんですよ。相手や出来事に対して、自分がどう見て、どう思うかで、相手への認識もその後の行動も変わっていくんだよな、って。
引用:withnews
「親への恨み」からの解放
大東さんはずっと「親なんだから」と強くこだわってきました。
しかしある時、考え方を変えたそうです。
「親もひとりの人間として見てあげよう」
そう思えたときから、心の中のわだかまりがすっと消えたと言います。
親は親だ、と思うからつらかった。自分と切り離せない存在だから恨んでいたんです。でも、母親が、父親がって、ずっとこだわっていても生きていけない。だから、親と自分の間に壁ができて「あの人は個人の人生を、この壁の向こうで自由に生きているんだ」と思うようにしました。そうしたら関心がなくなった。諦めたとも言えるかもしれません。
引用:withnews



生き延びるために親への執着を手放したのですね。
大東駿介の母親の現在
中学2年で蒸発して以来ずっと離れ離れでしたが、高校入学の頃に一度だけ再会する機会がありました。
そのとき母親から「一緒に住もうか」と同居を提案されたそうですが、大東さんにも意地があって素直に受け入れられず、結局これを拒絶してしまったのです。
それ以降、大東さんはお母さんと距離を置くことを決め、今は会わないという選択をしています。
母親とは、実は、高校に入学する頃に会っているんです。そのときに母から引っ越しと同居を提案されて、僕にも意地のようなものがあって拒絶した。それから会わなくなりました。母親とは今は会わない、という選択をしています。
引用:withnews
このため、大東さんの母親が現在どうしているのかについて、公に知られている情報はほとんどありません。
大東さん自身も「母の現在の状況について詳しく知らない」と語っており、メディアでもお母さんの消息について具体的に語ったことはないようです。
お母さんは一般の方ですので、現在はどこかで静かに生活されているものと思われます。
大東さんは親に対する恨みの気持ちを長く抱えていました。
――ご両親についてお聞きしたいのですが、当時、帰ってこない親を恨んだりはしませんでしたか。
大東:
引用:withnews
死ぬほど恨みましたね。毎日そのことを考えに考えて、ある夜、ふと布団から起き上がったときに「ああ、親も個人なんだ」と思ったんですよ。
相手(親)や出来事そのものを変えることはできなくても、自分の捉え方次第で世界の見え方はいくらでも変えられる――そのことに気付いたとき、過去の出来事に対して前向きな意味を見出せるようになったと語っています。



母親と今会っていないのも、そのような割り切った心境から「過去は過去、自分は自分」として前に進もうという大東さんなりの決意なのかもしれませんね。
自身が父親になった今
一方で、大東さんは自身が父親になった今、過去の体験とどう向き合っているのでしょうか。
実は大東さん、2015年に一般女性と結婚し、お子さんが3人いることを2020年に公表しています。
入籍したのは4年半前、2015年12月のことです。
引用:NEWSポストセブン
幼少期に両親と離別しただけに、「家族を持つのが怖いと思わなかったか?」という質問もあるかもしれません。
大東さんは、自身の過去が「傷」ではあるものの、隠さず周囲に話すようにしており、パートナーにもちゃんと打ち明けたといいます。
そして「自分が父親として子どもに同じことを繰り返す危険性はないとは思うけれど、ないと思わないようにしよう」と考えているそうです。



「自分なら大丈夫」と慢心することなく、常に子どもたちへの愛情と責任を忘れずにいようと決意しているのですね。
さらに「『父親はこうでなければ』といった像に縛られすぎないようにしたい」とも語っており、自分なりのやり方で家族と向き合っているようです。
まとめ
大東駿介さんには兄弟はおらず一人っ子ですが、その生い立ちは幼少期に父親と母親の双方に置き去りにされるという非常に過酷なものでした。
中学生で電気も止まるような極貧生活を経験しながらも、周囲の大人や友人に支えられて乗り越え、俳優になるという夢を掴んだ大東さんの姿は本当に勇気づけられます。
現在お母さんとは距離を置いているものの、過去を乗り越えた大東さんは結婚して3人の子どもにも恵まれ、温かい家庭を築いています。
過去の辛い経験についても包み隠さず語り、「自分がどう思うかで世界は一変する」という前向きなメッセージを発信する大東さんは、多くの人に希望と勇気を与えています。
壮絶な生い立ちを経てなお明るく活躍する大東駿介さんの今後の活躍からも目が離せませんね。